皆既日食奮闘記
〜ダイヤモンドリングのティアラにシャンパンで乾杯〜
第一部 旅の準備と日本脱出
第二部 到着そしてマインツへ
第三部 観測場所を探して移動
第四部 皆既中二分間の異時空間
第五部 第三接触のあとで
第六部 日本に帰ってから

文責/グラフィックデザイナー(というよりは人生をデザインしたい)原 千香子

第一部 旅の準備と日本脱出

ネット上に、NASA が毎日一枚ずつ画像を紹介しているページ(Astronomy Picture of the Day)があります。8月30日には、ロシアの宇宙船ミールから見た、8月11日の日食の写真が紹介されました。比較的人口密度の高い地域を通過した、今回の日食を見るために、世界中から多くの人たちが集まりましたが、天候による明暗がはっきりと出ました。オーストリアのグラーツ(Graz)やトルコ周辺では、好天に恵まれたそうですが、この写真を見ると、欧州の大部分が雲に覆われていたのがよく分かります。このような悪条件の中で、ドイツのフランクフルト(Frankfurt)から欧州入りした私は、雲の切れ間を探し求めて車で走り続け、ついに勝利のダイヤモンドリングを手にすることが出来ました。その興奮は今なお冷めることはなく、さらに輝きを増しているのです。

ところでこの画像は、8月17日付のフランスの新聞「ル・フィガロ/LE FIGARO」の第一面にも掲載されていました。宿泊したフランスのストラスブール(Strasbourg)にあるホテルで朝食をとりながら、地上からは決して見ることの出来ない、この美しい画像を目にしました。まるでブラックホールのように、吸い込まれそうな黒い月影が、地球に落ちているのです。背筋が凍り付くような衝撃を覚えました。出来ることならば、私も宇宙から地球を見てみたい。その後は帰国する飛行機に乗るためにフランクフルトへ向かったので、この新聞をとうとう買うことが出来ずに、とても残念に思っていました。ですからネット上で同じ画像を見つけた時は、初めてこの画像を見たときのように感激しました。

私が天体に興味を持ち出したのは、4、5年ばかり前のことです。それ以前からパソコンを使って仕事をしていましたので、インターネットにも自ずと興味を持ち始めました。そのうち、ネット上に自分のホームページを作りたくなりましたが、その頃はまだ、日本語で書かれた天体に関するサイトは、ほとんどありませんでした。そこで無謀にも「月のカレンダー」のサイトを作ることにしました。天体のことは、かなり昔に学校で習ったとは思いますが、どうすればよいのかさっぱりわかりません。それでもネット上のサイトや書籍などで調べていくうちに、占星術では蟹座生まれを「ムーンチャイルド」と呼ぶことが分かりました。私は7月3日生まれですから、蟹座なのです。即刻、自分の「ハンドル名」にしました。また、天体には「蟹星雲」もあるではありませんか。個人差はありますが、女性特有の生理と月の周期が近いことや、潮の満ち引き、周期的にやってくるような自分の体調や気分の変化など、月と人間にも何か関係がありそうなのです。なんと興味深い世界なのでしょう。そこでデータを集めるために、月の満ち欠けを基準にしたデジカメ日記をつけ始めました。このようにして、私は月から天体の世界へと引き込まれて行ったのでした。

今年2月15日のオーストラリアで見られた金環食や、1997年3月9日のモンゴルでの皆既日食についても、一応気にかけてはいましたが、今回の皆既日食ほどには熱中しませんでした。そもそも私がこのことを知ったのは、旅行関係の配信メールに書かれていた「パリで99%の部分日食が見られる」という記事が発端になっています。どうせ見るのだったら100%の皆既日食を見てみたい。では、皆既日食になるのはどこなのだろう。もしかしたらシャンパーニュ地方のランス(Reims)あたりかもしれない。調べていくと、なんと見事に私の感は的中しました。今世紀最後の皆既日食をシャンパンの本拠地でグラスを傾けながら見ることが出来るなんて、なんて素晴らしいのでしょう。なんとしても欧州に行き、自分の目で見たくなりました。その前後に買い物や観光が出来ることも、今回の皆既帯が欧州を横切ることは、私にとって大変魅力的なのでした。

日食に関する情報は、ほとんどネット上から集めました。数年前でしたら、書店で高価な本を買い求めたり、開館時間中の図書館へわざわざ出向き、資料を探すしか方法はなかったでしょうから、私のようにほとんど日食に関する知識のない者が、こんなに多くの情報を手にすることは、おそらく出来なかったでしょう。まずは検索エンジンにキーワードを打ち込み、よさそうなサイトを探すところから始めました。昔は「日蝕」と書いたそうで、その字の通りに「日が蝕まれる」わけですから、趣があったのですね。学術的なことまでは理解出来ませんが、どうも太陽と地球の間に月が入り込んで一直線上に並び、太陽がまったく月に隠れてしまうのが皆既日食らしい。見つけたいくつかの資料は、出力しておいて飛行機の中で読めばいいと思ったので、次から次へとリンクをたどりました。
皆既日食の観測 (日本語)
日食と月食 (日本語)
フランスの新聞ル・モンドの動画/l'eclipse solaire du 11 aout 1999 [Le Monde] (仏語)
皆既日食の撮影/How to photograph the Solar Eclipse? (英語)

世界中にあるクオリティの高いホテル・レストランのチェーン店で、パリに本拠地をおくルレ・エ・シャトー(Relais & Chateaux)は、今ではネット上からでも予約ができます。その豪華で美しいホテルの様子や、美味しそうな料理の写真は、見ているだけでも幸せな気分になってきます。そこで、ランスにあるシャトーホテルに「8月10日、11日に、ホテルに宿泊したい。もし、すでに満室ならば、11日の昼食だけでも予約をお願いしたい。」という内容のメールを送りました。するとやはり「8月11日は、日食のために、すでに予約で一杯です。」というリプライが届きました。とても残念でしたが、日本に住む私が2週間前の今ごろになって考えることなど、多くの人も考えるだろうからとあきらめました。

ならば別にフランスで見なくても、皆既帯であればよいので、ドイツのシュトゥットゥガルト(Stuttgart)や、オーストリアのザルツブルグ(Salzburg)あたりでも、その後の観光は十分に楽しめるわけです。幸いなことに、ドイツ、オーストリア、フランス政府観光局は、東京港区の青山通りから六本木通りの間に集中しているので、資料収集にでかけました。皆既日食については、どの国の政府観光局でも窓口で尋ねると、コピーした簡単な資料をくれました。私がまだ訪れたことのないオーストリアについては、出来るだけ障害物の少ない場所で観測したい旨を伝えると、穴場のスポットも教えてくれました。

また、欧州全体の雲の動きが一目でわかるサイトを見つけました。オーストリアのサイトなので、自国の国境が赤い線で示されています。1時間毎に更新されるその天気図は、私が欧州に入ってからも非常に役立ちました。その画像と URL は、政府観光局でもらったグラーツの日食パンフレットにも掲載されていました。

出発日を当初は、8月9日午前東京発、10日朝パリ着の便を予約していましたが、一週間前に急きょ、8日午前発、9日朝フランクフルト着の便に変更しました。というのは、11日の天気予報によると、フランスの皆既帯にある各地は、晴れる確率が低かったからなのです。フランクフルトに入れば、そのときの天候によっては、西へも東へも移動することが出来ると思ったからです。

さて9日、出発当日の朝になりましたが、案の定、仕事が終わりません。でも刻一刻と出発時間はせまってきます。仕方がないので「ごめんなさい。帰国してから続きの仕事をします。」と勝手なメールを一方的に送りつけ、約15分程で旅行の荷物をまとめました。とにかくパスポートと航空券さえ忘れなければいいのだからと、徹夜明けのぼけた頭で準備をしたので、やはり英仏日の豆辞書や旅行会話の本、寝袋などを入れ忘れました。

自宅から成田空港までは、普段は1時間半ほどみておくのですが、すでに飛行機の出発時刻まであと2時間もありません。祈るような気持ちで車をとばすと、なんと不思議なことに、この日に限って1時間で着いてしまいました。空港近くの駐車場に車を預ける予定でしたが、時間がないので、移動途中に携帯電話から連絡を入れ、追加料金を千円払って、出発ロビーの正面まで来てもらい、車から荷物をおろしました。便利な時代になったものです。

なんとか間に合いそうです。しかし、空港内は、お盆休みと皆既日食ツアーの人たちで溢れんばかりです。おまけに私の利用航空会社のコンピュータが止まったとかで、カウンターはデパートの夏の大感謝祭のように混んでいます。また格安チケットの日本人は後回しのようです。それでも出発予定時刻が刻々とせまってくるので、係の人に何度か尋ねたのですが、その度にもう少し待ってくださいと言われます。結局、予約していた便の出発時間を過ぎてしまい、その便には乗れませんでした。とは言え、こちらのミスではなく航空会社の手違いなので、すぐ一時間後の便に座席を用意してくれました。

この飛行機は直行便ではなくて、香港を経由します。乗り継ぎの待ち時間は10時間ほどあるので、ネット上で知り合った香港在住の知人に会い、本場の中国料理を九龍(Kowloon)で堪能しました。皆既日食祈願に、縁起が良いというハトの頭を食べましたが、クリーミィで美味しかったです。二階建バスやスターフェリーに乗って香港の夜景も見たし、楽しい小旅行でした。また、新しく出来たスーパーハブ香港国際空港も、ゆっくりと見学することができました。

フランクフルトに向けて香港を出発するのは真夜中です。出発ゲートに着くと、何故か座席が変更になっているとのこと。搭乗してみると、エコノミークラスが、なんとビジネスクラスに変わっているではありませんか。地上係り員の手違いで、成田出発が1時間遅れたお詫びなのでしょうか。これから約10時間の長旅を快適に、そして食事も豪華に過ごせるのです。

映画をみたり、雑誌をみたりしていましたが、そんな中でドイツ語の「フォーカス/FOCUS」に皆既日食の特集記事が載っていました。何が書いてあるのかは私には分かりませんが、見事なシャッターチャンスの皆既日食の写真や、撮影の注意事項、ドイツ各地の日食に関する情報のほか、英国のストーンヘンジが紹介されていました。きっと何かセレモニーがあったのでしょう。美しい写真の数々に、これから起こるであろうドラマの想像をさらにかきたてられ、私は夢路に就きました。


第二部 到着そしてマインツへ

機内食を準備する物音で目が覚めました。オレンジ色の朝焼けが雲に映った景色を見ながら、この太陽が本当に黒くなるのかしらと考えていました。やがて雲の中を通り抜け、フランクフルト国際空港に、定刻通りに到着しました。預けた荷物も無事に受け取り、マルクを引き出し、予約していたレンタカー会社の受付へ行きました。用意されていたのは、やはりドイツ車でした。機内で読んでいた雑誌名と同じ名前のフォード・フォーカスです。気温は、東京や香港に比べるとぐっと涼しく、長袖のトレーナーを着込みました。

ドイツのルフトハンザ航空を利用する分には、とても使いやすく設計された空港のようですが、他国の航空会社を利用したので、かなり歩かされたような気がしました。しかしさすがは国際空港ですから、売店ではフランスをはじめ各国の新聞を売っています。気になる天気を確認するために新聞を買いました。空港内は広いので、どこへ移動するにもけっこう距離があります。カウンター席でホットチョコレートを頼んで、天気図とドイツ、フランス、オーストリアの地図を見ながら、今後の針路を考えました。

大都市にはあまり居たくなかったのと、初日は旅の疲れをゆっくりと癒したかったので、とりあえずマインツ(Mainz)に行くことにしました。フランクフルトからは、40キロほどのところです。のんびり田舎道を走っていると、途中で方角がわからなくなり、道を尋ねました。私はマインツという地名しか言えず、おじいさんもドイツ語しか話せなかったのですが、それでもなんとか手振り身振りで、どのように行けばよいのかを教えてもらいました。

マインツは、ライン川とマイン川が合流する、ライン下りの船が発着する町です。活版印刷を発明したヨハネス・グーテンベルクは、この町で生まれました。中心地には、グーテンベルク博物館があり、12世紀に建てられたゴシック様式の部分と、後で増築されたロマネスク様式の部分を合わせ持つ大聖堂がそびえ立っています。1477年創立の歴史あるマインツ大学は、広い構内に学生寮やビアホールなどもある、趣のある建物なのだそうですが、残念ながら今回は足を運ぶ時間がありませんでした。もちろんマインツ大学の皆既日食に関するサイトもあります。

町の中心となる大聖堂の前の広場では、アスファルトを石畳にする工事をしていました。自動車、バス、路面電車が走るアスファルトの道路と、歩行者しか入れない区域を石畳にすることで、道路を識別しているのです。市内の地図を見るとピンク色の部分が石畳で、車の乗り入れが禁止になっており、近くには駐車場のPマークがたくさん並んでいます。地球温暖化現象と人に優しいドイツの政策は、このような所にも現われているのだと感心しました。

まずは今夜の宿を確保しなければいけないので、車をいったん、公共駐車場に止めて観光案内所に行き、マインツのホテルリストをもらいました。電話よりも直接出向いた方が話は早いと思い、ロケーションのいい安めのホテルをいくつか探し、なんと大聖堂のすぐ裏側にあるホテルに一泊することが出来ました。やはり午前中だと宿を見つけやすいですね。これで安心してドイツビールを飲みながら昼食をとることが出来ます。幸先のよいスタートです。食事の後は、晴れたり曇ったりのお天気でしたが、明日からの移動に備えて、飲料水や食料の買い出しをしました。東京には、100円ショップとか99円ショップなどの店舗がありますが、ここマインツにも「99ペニヒショップ/99 PFENNIG SHOP」があって、同じような日用雑貨が日本よりも安く、約65円くらいで売られていました。近くのスーパーマーケットにも行きましたが、食料品もかなり安く感じました。

明日の移動をフランス方面にするか、オーストリアにするか、そのままドイツを南下するのかを、遅くとも昼頃までには、決めなければならないでしょう。そのためには、新聞ではなくネット上で、最新の天気図を確認しなければなりません。持参したパソコンからネットに繋ぐ体制は整っていますが、あいにく宿泊したホテルからは、電話に繋ぐことが出来ません。観光案内所に行き、サイバーカフェの場所を教えてもらいました。ホテルに戻って仮眠をとったあと、夜遅くまで、日食に関する資料に目を通し、ドイツと隣国の地図で地名の場所を確認しました。ところが大聖堂の近くにあるホテルでは、静かな夜に、15分毎に鳴る大きな鐘の音が響いてくるではありませんか。このあたりに住む人たちは平気なのでしょうか。夜半には、雨も降りだしました。明日、明後日の天気が気になりますが、旅の疲れも手伝って、いつのまにか私も眠っていました。

翌朝7時過ぎに、小雨が降る中を広場へ新聞を買いに行きました。10日火曜日は、市が立つ日なのですね。私の大好きな木苺や葡萄、新鮮な野菜、チーズ、ソーセージ、生花などが広場を埋め尽くしています。ミラベルの実がもう出回っているのですね。梅の実に似た黄色でとてもよい香りがします。フランスに留学していた頃は、ミラベルのタルトが大好きでよく食べていました。残念ながら、日本では生産も輸入もされていないので、欧州へ来たときには、缶詰やコンポートを買って帰ります。それでも生のミラベルで作った料理が一番美味しいです。ホテルに戻って、新聞の天気図を見ました。ドイツの皆既帯にある各地には、すべてにわか雨のマークがついています。晴れのマークは、エーゲ海とアイルランドだけです。困りましたどうしましょう。ともかく朝食を食べることにしましたが、これがまた美味しいのです。ジュース、シリアル、ハム、ソーセージ、卵、チーズ、パン、ヨーグルト、珈琲、などは、バイキング形式で食べ放題なのです。栄養満点、これで今日一日もがんばることが出来るでしょう。

今朝買ってきた新聞(Allgemeine Beitung)は、ここマインツの地方紙らしく、広場には立派な新聞社の建物がありました。最新データの欧州の天気図を、パソコンから引き出すことができないか、尋ねに行きました。すると教えられたのは、観光案内所で聞いたのと同じサイバーカフェの場所でした。大聖堂から歩いて15分くらいの、大通り沿いにあります。インテリアにも凝っていて、床には玉砂利が敷き詰めてあり、黒とグレーを基調に渋くまとめられています。歳の頃は、おそらく日本の高校生や中学生くらいの男の子たちで、空席がないほどに賑わっていました。たったひとりで接客しているお店のシュミッドさんは、とてもハンサムです。その上、親切な方で、忙しい中を天気図を見てどこへ移動したらよいか、悩んでいる私の相談にものってくれました。記念にその天気図をカラー出力し、日本に帰ったら私のサイトでここのサイバーカフェを紹介することを約束して、お店をあとにしました。

めざすは、ザールブリュッケン(Saarbrucken)です。マインツからは、150キロくらい離れた、フランスとの国境近くの町です。途中のサービスエリアで昼食をとりました。その間に青空が広がり、外は半袖でいてもいいくらいに暖かくなりました。この調子で明日の皆既日食当日も晴れてほしい。アウトバーンでは、いろんな国のナンバープレートのついたトラックや、夏休みですから、家族4人分の自転車も積んだ、キャンピングカーを引く乗用車が目立ちました。ドイツでは、リサイクルできる資源ゴミの区分は日本よりも多いのですが、サービスエリアにも、やはり大きくて材質ごとに色の違う、大きなゴミ箱が設置されていました。日本ももっと見習えば、ゴミは減るのだろうと思いました。

夕方5時ころ、ザールブリュッケンに入りました。歩道や橋の上などいたる所に花が飾られた、中心部を川が流れるきれいな町です。ドイツ語は話せないし、ガイドブックもないので、とにかく観光案内所の「i」のマークか駅の標識を探しました。すると、駅のすぐ近くに観光案内所がありましたが、すでに長蛇の列ができています。到着した列車からは、次々とバックパッカーたちがやって来ます。案内所の中では、日食グッズがたくさん売られていました。今夜の宿があるかどうかを尋ねましたが、やはり町中のホテルは満室でした。皆既日食の催しについて尋ねたら、ザールブリュッケンの町中の教会の鐘を、皆既日食になると同時に一斉に鳴らすのだそうです。また、町の中心の広場では、音楽会もあるとのことでした。

さてどうしようか。教会の鐘が鳴り響くのは、とてもすてきに違いありません。でも、泊まれるところはないし、ドイツ語はわからないので、とにかく国境を越えてフランスに入ることにしました。高速道路は、アウトバーンからオートルートに変わり、標識の色も青から緑に変わります。適当なところで高速道路を降りて脇道を走り、どこかの小さな町のホテルを探すことにしました。しばらくすると道路標識のポールにくくられた「日食/ECLIPSE」という、手書きの看板が目に入りました。即席のキャンプ場を示す矢印も、ところどころに見かけます。でも寝袋を持ってくるのを忘れてしまったので、出来ればホテルを見つけたいのです。教会や町並みが見えると、ホテルの看板を探し、何軒かあたってみましたが、やはりどんな小さな町のどんなに小さなホテルも、すでに予約で満室なんですね。

サン・タヴォル(Saint Avold)に着きました。もう午後7時をまわっていたので、町の観光案内所はすでに終わっています。でもホテルのロビーには、必ず地図やパンフレットなどがおいてあるので、近くにあった二ツ星のホテルに行ってみました。英国から来た皆既日食のバスツアーの一行が到着したばかりのようで、レセプションの人は忙しそうです。裏庭は、臨時のキャンプ場になっていましたが、そこもすでに一杯です。資料を集めていると、黄色の皆既日食の案内書を見つけました。表紙には、11日は、日食用の眼鏡をかけてでかけるように書いてあります。市役所では、高校の天文クラブにより、プラネタリウムが特設されているようです。ネット上で見つけた資料によると、サン・タヴォルは、皆既帯の中心に近いので、皆既の時間帯も12時28分47秒から12時31分6秒、なんと2分19秒もの間、闇に包まれるのです。町中では、日食のイラストの描かれたバスが走っていました。小さな町ですが、すごい熱の入れようです。カウンターに新聞があったので、明日の天気図を見ると、残念ながらこのあたりは、あまりよさそうな天気ではありません。

外はまだまだ明るくても、夜の8時を過ぎていましたから、とにかく先へ進むことにしました。おなかも空きました。とりあえず食事をして元気をつけようと思い、またオートルートに戻ってサービスエリアに寄りました。キャンピングカーの人たちは、パーキングの敷地内に椅子やテーブルを出して、夕食をとっていました。芝生の上には、なんといくつものテントが張られているのです。ふと高速道路のサービスエリアで、キャンプしてもいいのかなと思いましたが、きっと今夜は特別な夜なのでしょう。今夜はこれ以上、宿をさがしてうろうろするのは、どうも時間の無駄のようです。しっかり食べて早目に眠ることにしました。もちろん車の中でです。

リアシートを倒し、荷物は全て前のシートに移動させて、足を伸ばして眠れるように体勢を整えました。こんなこともあろうかと、こっそりとブランケットを○○○から失敬してきたのです。夜はさらに寒くなるので、トレーナーや靴下などを重ね着して横になりました。クッションがないと、やはり身体が痛かったですね。疲れていたのだと思います。夜10時過ぎには、ぐっすりと眠ってしまったようです。夜中の2時頃に目が覚めました。トイレに行く途中、階段のところで話し込んでいる、オランダとイギリスの男の子と、ベルギーの女の子がいました。ノンアルコールビールを飲みながら、それぞれの人生観について話し合っています。私も議論に加わりました。日本から皆既日食を見に来たのだと言ったら、驚いていました。オランダの男の子が家事の手伝いをすると、女みたいだと近所の子供にからかわれると言っていました。まるで何年も前の日本のようで、少しびっくりしました。というのは、欧州では家事を手伝うというより、アイロンがけや料理が得意な男性を、私は何人も知っているからです。もっと話を続けたかったのですが、車に戻って眠ることにしました。


第三部 観測場所を探して移動

いよいよ皆既日食の当日になりました。ラジオで天気予報を聞こうと思ったのですが、上手く入りません。早朝だったからでしょうか。それとも電波の届かないような場所だったのでしょうか。午前4時を過ぎました。ここのサービスエリアにいても、売店が開く7時になるまでは、新聞も買えないので、とりあえずもう少し先にある、メッス (Metz)にまで行くことにしました。駅に行けば、新聞も買えるだろうし、温かいカフェを飲むことも出来ます。走っているうちに、あたりは少しずつ明るくなってきました。でも空はどんより曇っています。メッスでは、皆既の時間が2分17秒もあるというのに、着いた時には今にも雨が降りそうでした。もしフランスがだめならば、ドイツに戻ってオーストリアの方へ向かうことも、今ならばまだ間に合います。朝6時前にメッス駅に着きました。売店で新聞を買い、天気予報欄を見ます。ドイツは完璧にダメなようです。ドイツとの国境に近いストラスブールや、ここメッスあたりにも、にわか雨のマークがついています。

シャンパーニュ地方、もしくはさらに西へ行かないと、晴れ間を臨むことは出来ないようです。海岸沿いの町ディエップ(Dieppe)や、ル・アーブル(Le Havre)あたりまで行けば、新鮮な海の幸を食べながら日食を見ることも出来ます。それでも曇りのち晴れのマークです。晴れのマークは、南仏だけです。急がなければと思った時に、日本が大好きだという、ドイツのベルリンに住む男性に話しかけられました。昨日メッスに泊まって、皆既日食当日は、残念だけど仕事があるから、ベルリンに帰らなくてはいけないらしい。黒沢監督の映画が大好きらしく、彼の命日の9月6日は、黒沢の「く=9」と「ろ=6」だと教えてあげたら、感激していました。彼の話によると昨夜は、皆既日食の前夜祭も行われたそうで、日食を見るときの目を保護する眼鏡を配っていたそうです。サン・タヴォルのホテルで集めた資料の中には、メッスの「ミラベル祭」のパンフレットがありました。これからランスへ向かうからと彼にあいさつをして、あたたかい珈琲でも飲もうと思い、駅のコンコースを抜け、右へ曲がりました。壁によりかかって眠っている人が一人二人、そのうち、寝袋がひとつふたつ、なんと到着ロビーには、あっちこっちにテントが張られ、そこは臨時のテント村になっているではありませんか。サービスエリアの芝生といい、駅の構内といい、皆既帯にある多くの町では、きっと同じような光景が、あちらこちらで見られたのでしょう。

結局目的地は、出発前に立てた予定に戻って、ランスへ行くことになりました。こんなことなら、出発を一日早めたりしないで、直接パリに入ればよかった、などと思いながらも、先を急ぎます。ラジオでは、皆既日食特別番組が、朝から繰り返し放送されています。今朝早くからパリの北駅は、とても混雑しているようです。パリから北へ90キロくらいのコンピェーヌ(Compiegne)という町も皆既帯にあり、みんなその地を目指すのです。でもラジオから流れるフランス各地の天気予報は、どこもよい天気とは言えません。とうとう雨が降りだしました。ますます暗い気持ちになります。走り続けると、進行方向では晴れているらしく、空が明るくなっています。

晴れたかと思えばまた雨で、時には土砂降りの雨にもなり、不安で一杯になりました。オートルートのサービスエリアでは、どこもキャンピングカーが目立ちます。芝生の上には、やはり色とりどりのテントが張られ、車中泊組と思われる車の窓は、大きなタオルやTシャツなどで、目隠しされています。また別のサービスエリアに立ち寄ると、イタリアを昨晩遅く出発して、車中泊でここまでやって来たのでしょうか。顔を洗う若い人たちで洗面所とトイレは賑わっています。皆既日食を見た後は、ユーロ・ディズニーを訪れるのかもしれません。東から西へ向かって、A4の高速道路を走っているのですが、日食の観測によさそうな場所はけっこうありました。地平線まで続く畑や空軍基地などでは、障害物は何もありません。あとは、天気が回復することを願うだけです。

ようやくランスに近付いた頃には、時々晴れ間も覗くようになりました。喜んだのも束の間で急に車が前に進まなくなりました。高速道路の料金所が大混雑なのです。行儀の悪いルクセンブルグのバスや、フランスのキャンピングカーが、何台も割り込んできます。私の前にいたドイツナンバーの車は、人が良すぎるのか、何台もの車に先を譲るので、私の車はますます後になってしまいます。窓を開けて、大声で文句を言いました。すると、隣の列にいた親切なフランスナンバーの車が、割り込みのない列に入れてくれました。どこの国でも同じような光景が見られるものですね。ようやく料金所の窓口まで来ましたが、メッスからオートルートに乗った時に、発券されたカードがありません。日食の資料や地図を広げている時に、どこかに紛れ込んだようです。窓口の人に「メッスから高速にのったんです。券を探しているのですけど、みつからないんです。」と言いながら探しますが、やはりありません。仕方がないので、料金所の人もあきらめて通してくれました。後でやはり、資料の中からカードが出てきたので、よい記念の品となりました。

午前10時を過ぎました。料金所を越えると、警官が何人も立っていました。高速道路からランス市内への入口は、すべて封鎖されています。市内から外へ出る車は、大丈夫なようです。できればもっと西へ行きたかったのですが、そろそろ腰を落ち着けなくてはいけません。空はどんよりと曇っています。このままランスにいたら、皆既日食は見れないと思いました。それにランスは皆既帯にはありますが、南側に位置しています。ですから少しでも中心近くへと進みたいのです。高速道路を降りることにしました。少しでもいい条件の場所で皆既日食を見たいので、針路をソワッソン(Soissons)に向けて走り出しました。さきほどまでの渋滞がうそのようです。ところどころには「エクリプスの観測に最高の場所」という看板が立っています。

しばらく行くと、フィズム(Fismes)という小さな町に着きました。メインストリートに2〜3軒しかないカフェやブラッスリーは、すでに観光客でいっぱいです。エクリプス記念ビールも出しています。これと言った観光名所のない小さな町では、もしかしたら店主が生まれて初めて経験する、混雑ぶりなのかもしれません。現金の持ち合わせがあまりなかったので、少しお金を引き出しました。レシートには10時24分の刻印があります。もう少し天気がよければ、この町で観測してもいいのですが、晴れ間を求めて、さらに北西へ進むことにしました。でも心の中では、もう半分あきらめかけていました。11時5分の第一接触までは、あと30分足らずですし、天気もまったくよくなりません。カフェを飲んでいても落ち着きません。11時を過ぎてしまいました。もうしばらく、ソワッソンへ向けて走ってみることにしました。

走っている途中で、第一接触の11時5分になりました。さあ、いよいよ今世紀最後の天体ショーの始まりです。特に実感はありませんでしたが、幸いにも少しずつ日が差して来ました。しばらくして、前を走っていた車が路肩に車を止めたので、私も車を寄せて太陽を見てみました。ポジフィルムの黒い部分を使って空を見上げると、欠けています。本当に欠けています。右斜め上のあたりが、クッキーをかじったように少し欠けているではありませんか。我々2台の車に続いて、次々と車が止まりだしました。しばらくして、蛍光オレンジのライン入りの服を着た男性二人が、パトロールの車でやってきました。ここは幹線道路なので、もう少し先のパーキングエリアか、脇道にそれて日食を見なさいと注意されました。三脚を車に片付けていると、さっきのパトロールの二人も保護眼鏡をかけて、日食を見ているではありませんか。思わず笑ってしまいました。

少し希望が見えてきました。雲の切れ間が、10分、20分後にはどうなるかを考えながら、その後も車で田舎道を移動しました。とはいえ、私は気象学について勉強したわけではありませんから、ほとんど女の第六感のようなものだったのかもしれません。それでも、雲の晴れ間をさがして移動し続けます。すると右前方に青空が見えました。かなりの広範囲なので、そのあたりまで行けば、大丈夫かもしれません。そこでさらに細い道にそれました。あたりは一面の畑で、家も木が一本すらありません。走っているのは農道なのでしょうか。

考えてみると、青空の真下までは行かなくてもいいのですよね。雲は風にのって流れているので、1時間後には風下にあたるこのあたりが、皆既の時には青空になるかもしれません。カメラをセッティングしていると、10メートルほど離れた所にいた、フランスナンバーの車の男性が話しかけてきました。「ドイツ語か英語を話せるか」と聞かれたのは、ドイツナンバーの車に乗っていたからでしょう蚊。「フランス語と英語を少し話します」と私が答えると、彼は、カメラのレンズから、直接太陽を見ては絶対にいけないと、親切に忠告してくれたのでした。ドイツにいたときも、太陽を直接見ないようにと、やはり何人もの人が忠告してくれました。車が少しずつ増えて来ました。同じように青空を探して、この畑にたどり着いたのでしょう。使用したカメラは、ニコン801のボディに、レンズはトキナー100〜300ミリの300ミリを使用、ケンコーのテレプラス2倍のコンバータを付けたので、レンズは600ミリ相当になります。フィルターは、ND4 とND8を使用し、フィルムは、フジのプロビア(ISO100)と、コダックのE100S(ISO100)を使用、シャッターは、半絞りずつ5段階で切りました。ところが、いざセッティングを始めると、ズームレンズが300ミリのところで固定されずに、落ちてくるのです。仕方がないのでガムテープで固定しました。今までに日食の写真も天体写真も撮ったことはなく、練習なしの一発勝負ですから、現像が上がってくるまでは本当に心配でした。

デジタルカメラでも撮ってみました。レンズが360度回転するリコーのDC-4Tですが、やはりフィルターをかけないと、光りが強すぎて、太陽の形がはっきりしません。ポジフィルムの黒い部分を使うと肉眼でははっきりと見えるので、レンズのところにフィルムを二重にしたり、一重にしたり、距離をおいてみたりしましたが、やはりはっきりとした形は写りませんでした。このポジフィルムの切れ端ですが、雲がないときは二重で、少し雲がかかっているときは一重にして太陽を見ると、とてもよく観察できました。濃い色のフィルムが初めからはめ込まれている皆既日食用の眼鏡では、このように天候の変化に合わせて、フィルムの濃さを調節することは出来なかったでしょう。当日までに、皆既日食用の眼鏡を買えなかったので、カラフルで様々なデザインの眼鏡をかけている人たちが、とても羨ましかったのですが、結果はポジのフィルムの黒い部分の方がよかったのです。ガラスにろうそくのすすを付けて見ている人とは、さすがに出会えませんでした。

少しずつ太陽は欠けているのですが、やはり時間を持て余してしまいます。さっき話しかけてくれたフランス人の子供たちも退屈してきたようです。車のハンドルを握って遊んだり、あたりを駆けたりしています。お父さんは、科学の実戦学習のためにはりきっていて、紙に小さな穴をあけ、手のひらに映った「欠けた太陽」を見せようとしていますが、子供たちはまったく感心を示しません。お母さんは赤ちゃんの世話で、手が放せないないようです。ここは広い畑の中ですが、携帯電話を持っている人たちが多く「そちらの雲の様子はどうだい」などと、情報交換をしていました。

15分ほどすると、雲が厚くおおいかぶさり、そのあと小雨さえぱらついてきました。でも風上は、青空です。皆既の時間になれば、あの青空は、きっと私のところにやって来る。もう、祈るしかありませんでした。とうとう雲が多くて、欠けた太陽を見ることが出来なくなりました。それでも少しずつあたりは暗くなって来ました。雲に覆われた暗さとは、明かにちがいます。どこからやって来たのか、鳥たちが空を低く飛んでいます。しばらくして雨は止みました。雲の動きも早くなって、また少しずつ太陽が見えて来ました

正午を過ぎました。あと20分ほどで皆既になります。先ほどまで風上にあった青空が、頭上に来ました。でも、日食が進むにつれ、太陽に向かって、少しずつ雲が増えて来るのです。ぽっかりと穴があいたような青空だったのに、まるで近くで火を焚いて煙が昇るかのような勢いで、雲が近付いてくるのです。段々青空がせまくなって来ました。あと5分で皆既になるという時には、とうとう雲が邪魔をして、太陽はまったく見えなくなりました。あたりの車は、次々に移動を始めています。身軽だといいのですが、カメラのセッティングがしてあるし、さあ、どうするかです。でも、やっぱり移動しないと、世紀の一瞬を見のがしてしまうので、思い切って移動することにしました。


第四部 皆既中二分間の異時空間

ほんの数メートルの移動でも、厚い雲の下から、晴れ間に変わるのですね。急いで三脚を立ててレンズの位置を合わせました。さらにあたりは暗くなり始めました。でも夜の暗さとは違うんですね。なんだか紫がかったような、目がかすんでいるような、そんな感じです。実際、私は近視なのですが、レンズが汚れているのかと思って、眼鏡をはずしたくらいです。だんだんあたりが暗くなって行く様は、灼熱の太陽の下で、濃いサングラスをかけているかのような、徹夜明けやパソコンの見つめ過ぎで、視力が落ちたような、それに似た感じで、物がよく見えなくて、つい目をこすりたくなってしまいます。物影の暗さともやっぱり違う、不思議な色彩の空間でした。私が想像していたように「いきなり夜がやって来る」ようなことはありませんでした。

さらに太陽が少しずつ隠れていきます。せっかく移動したのに、非情にもまだ雲が近付いて来ます。お願いだから、太陽を隠さないでと祈るしかありません。気持ちが高鳴ります。そして、太陽がいよいよ隠れてしまう寸前に、ダイヤモンドリングが、私の頭上に現われました。それは生まれて初めてこの目で見た、たとえようのない輝きでした。あたりにいる人のことなど、まるで気にはなりません。このダイヤモンドリングは、自分一人のものだと思いました。それはきっと、世界中のどんなに高価な、どんなに大きなダイヤよりも、美しく輝いていたのでしょう。そして、少しずつその輝きが小さくなり、12時24分、第二接触、ついに皆既になりました。その瞬間は、まるで時間が止まったのかと思いました。この世の物とはとても思えませんでした。まばたきするのが勿体ない。急速に接近していた雲の動きが、ピタリと止まりました。観測の邪魔をしていた恨めしい雲が、もうまったく動きません。月でもない、太陽でもない、この不思議な目の前にある物体、それは今、太陽と月と地球とそして私が、一直線上に並んでいる間だけ見ることが出来る、宇宙が作り出した秀逸の絵画なのです。周囲の人たちは、意外にも静かでした。感情表現の豊かな国々の人たちですから、叫んだり、泣いたり、身体中で表現するのではと、私は予想していたのですが、見事にはずれました。

とにかく、何もかも初めて見る天体ショーが、次々に起こるのです。雑誌や、ネット上で見た写真などとは、比べものになりません。どんなに言葉を書き重ねても、表現することは出来ないほどに、本物は美しいのです。コロナもとても幻想的でした。その心底黒い物体から放射線状に伸びる光は、時に青く、時に白く輝いているのでした。

皆既になって現われたこの黒い太陽は、私の知っているどんな黒い色よりも「黒い」と感じました。でも本当は、黒い月の裏側なんですよね。すっかり見入っていた私は、ふと左下に光っている星を見つけた時に「あ、金星だ!」と叫びました。あたりはあまりに静かだったので、なんだか申し訳ないような気がしました。それほどまでに崇高で厳粛な空気が、漂っていたのでしょう。私には、金星がいきなり現われたような気がしました。雲のせいなのか、私が見落としたのかもしれませんが、残念ながら水星を確認することは出来ませんでした。

それにしてもちょうど、雲の切れ間にいた我々は、大変ラッキーでした。イギリス、ドイツ、フランス、ベルギーなどのナンバーの車が20台ほど、バイクが数台、50〜60人くらいだったと思います。広い畑のあちらこちらへ広がった人たちは、それぞれの空間の中で、思い思いの皆既日食を心に写し撮ったのでしょう。

プロミネンスは、日本語だと紅炎と書くそうですが、しっかりと写真にも写っていました。それにしても月は、かなり歪な形をしているのですね。月が真ん丸の球体ではなくて、卵に近い形をしていることは、何かの資料で読みましたし、月面に凹凸があるのも知っていましたが、いつも見ている月の輪郭は、もっとなめらかのように感じます。太陽を隠しているのは、本当に月なのだろうかと、疑いたくなるほどです。

第三接触の後、今度は反対側が光るダイヤモンドリングが現れました。いつまでもいつまでも見ていたい、手を伸ばして触れてみたい、そんな美しさです。


第五部 第三接触のあと

12時半をまわりました。あたりが明るくなるのは、とても早く感じられました。私はあまりに興奮していたので、ゆっくりと味わう余裕がなかったのかも知れません。金星もいつのまにか消えていました。眩しいのです。たかだか2分数秒の闇の後なのに、こんなにも太陽の光とは眩しかったのかと思います。驚いたのは、明るくなった途端、周囲の人たちが車を移動しだしたことです。第三接触まで見れば、もう十分ということなのでしょうか。それとも渋滞をさけて、早めに皆既帯の外に出ようとしているのでしょうか。あるいはお昼休みを利用して、皆既日食を見に来ていたのかもしれません。残った車は、三分の一ほどになってしまいました。とにかく、ほとんどが雲に覆われたシャンパーニュ地方で、偶然ここにたどり着いた人たちだけが、今回の皆既日食の天体ショーを見ることが出来たのです。日食を見ている人たちの様子を、もっと写真に撮っておけばよかったと残念に思うのですが、そのときは、なんとしてもダイヤモンドリングをコロナを見たいという思いが強く、それどころではありませんでした。

ふと気が付くと、私が車を止めたすぐそばには「馬ふんの山」があるではないですか。しかも少しぬかるんでいるのは、この天気ですから当然です。昨夜も雨が降ったのでしょう。皆既日食を無事に見ることが出来たので、笑って話せますが、もし見れなかったならば、まさしくフンだり蹴ったりとなるところでした。

朝食もそこそこに、観測地を探し求めて走り続けたので、さすがにおなかが空いて来ました。畑に残っている人たちも、車の中や外にテーブルを出して昼食をとっています。シャンパーニュ地方の県 ナンバー「51」の車に乗る人だったら、このあたりの地理にも詳しいだろうと思い、現在位置を地図上に記してもらいました。とりあえずランスに戻りレストランを探し、シャンパンで祝杯をあげ、美味しい食事をしたいと思いました。三脚と荷物を片付けて車に乗り込みました。足元は、ワラや土だらけと思いたいけど、実際は馬ふんだったのでしょうね、すごく臭いんです。このあと2日間ほど匂っていました。

ランスに戻る途中、エクリプスポイントの看板のある場所では、まだ太陽を見上げている人たちや、行儀よく並んだ車の列を見かけました。おそらくこのあたりは、雲が邪魔をして皆既日食は見れなかったはずです。もしかしたらこれから先、晴れ間が覗くかもしれない、そんな微かな希望を託して空を見上げているのでしょうか。すでに交通規制も緩和され、ランスの町に入ることが出来ました。真っ先に訪れたのは、シャンパン・セラー、テタンジェ(Taittinger)でした。1734年の設立で、フランス革命で壊された大僧院の地下にあります。あいにくと昼休みの時間だったので、駐車場に車を止めて、食事をしようと思いましたが、美味しそうなレストランは、もうすでに満席です。あきらめて、テタンジェに戻ると、大型観光バスが何台も駐車していて、英語が飛び交っていました。そりゃそうですよね。せっかくイギリスからランスにまで来たのですから、ここのセラーを見学しないはずがありません。午後の開館時間が近付くと、ますます人が増えてきました。何年か前、私が訪れた時には、見学者はたった一人で、日本語の映画を見せてくれて、私一人のためにガイドをしてくれたのを思い出しました。これも、エクリプスに便乗した観光現象なのでしょう。あまりの人の多さに、日を改めて出直そうと思い、今夜の宿を探すことにしました。日食が終われば、宿はすぐに見つかるだろうと思っていたのですが、ランス市内も郊外もホテルはどこも満室です。

結局、宿を見つけることが出来たのは、午後5時半をまわっていました。ランスから50キロほど南下した、ラ・ショッセ・シュル・マルヌ(La Chaussee sur marne)という、小さな町です。このホテル一軒と数軒の民家、郵便局と日用雑貨や食品を売る店が一軒あるだけです。空いていた最後の一部屋は、トイレが壊れていたけれど、バスタブとテレビのある、木組みの落ち着いた部屋で、ダブルベットに一人でゆったりと眠れます。レストランはこのホテルの中にしかなさそうなので、夕食も頼みました。ゆっくりとお風呂に入り、昼の興奮がまだ冷めない「勝利のダイヤモンドリング」に、この地方のシャンパンで乾杯しました。ドイツで食べ損ねたミラベルをソースに仕立てた、うさぎの肉にこの地方の野菜のソテーが添えられたメインディッシュと、マダムに薦めてもらったボルドーの赤ワインを飲みながら、祝いの晩餐となりました。あくる朝、新聞を買いに近くの店へ行くと、全国紙はなく地方紙しか置いてなかったのには驚きました。

さてそのあとは、せっかく世界に誇るシャンパンの本拠地にいるのですから、これを見逃す手はありません。エペルネー(Epernay)に寄り、モエ・テ・シャンドン(MOET & CHANDON)のセラーを見学したあと、1992年のドン・ペリニョンと、2000年記念のシャンパンをマグナムで購入、もちろんシャンパンを発見した、盲目の修道士であるドン・ペリニョンの像と一緒に、記念写真も撮りました。シャンパン街道と呼ばれる、ランスからエペルネーまで続く葡萄畑を、ドライブしたのはとても気持ちがよかったです。そしてアルプスを臨むレマン湖のほとりで短い避暑のあと、スイス経由でフランクフルトに戻り、帰国したのでした。帰りの飛行機では、重量オーバーで追加料金をとられたので、とても悔しい思いをしました。


第六部 日本に帰って

今回の皆既日食については、多くの方々と話す機会があり、私が体験出来なかったことで、残念に思ったことが二つありました。一つは、日食の時には、木漏れ日も日食になる現象を見れなかったことです。私が観測した畑の真ん中では、あたりには木が一本もなかったのですが、以前皆既日食を見た方の話によると、第三接触のあとホテルに向かう途中で、入口に植えてある木の下を通ったところ、三日月型の木漏れ日がいっぱいだったのだそうです。欧州の町中や公園などで観測した人の中には、気付かれた方も多いでしょうね。とても羨ましく思っていました。すると、冒頭でご紹介したNASAのAstronomy Picture of the Day のアーカイブに「三日月型をした木漏れ日」の画像が掲載されているではありませんか。感激しました。肉眼でこそ見ることは出来ませんでしたが、地面が本当に、三日月型の木漏れ日で埋め尽くされています。いつかきっと、この目で確かめてみたいです。

もうひとつは、高台から皆既日食を見ていると、黒い影が地平線からどんどん近付いて来て、その黒い影が、また反対の地平線へと去っていくという光景です。これを「本影錐」と呼ぶそうですが、なんと美しい壮大なドラマなのでしょう。あまりに空ばかり見上げていた私には、暗くなったのはわかりましたが、影がどんどん近付いて、また離れていく様子は、残念ながらよくわかりませんでした。また戦争を経験された方に話したところ、それは、B29が近付いて来る様子にも似ていて、美しさに不気味さも加わるとのことでした。

そのほか、現地で購入した新聞、雑誌などに掲載された記事や、特に印象的だったことについてお話します。

欧州各地で日食を見る人たちの様子は、実にさまざまでした。日食の前日や前々日の新聞には、パリにある眼鏡店では「エクリプス眼鏡は完売」と、ガラスに貼り紙をしている店員、高速道路でのエクリプス渋滞の写真、皆既帯にある各地での催し物の案内、などが目に付きました。私は絶対に皆既日食が見たかったし、それも皆既帯のなるべく中心に位置するところで見たかったのですが、現地では自分の住みなれた場所で、いつもの生活の中で起きるひとつの現象として、とらえている人たちがとても多かったようです。日食当日まで多くの雑誌やテレビ、ラジオでは、あれほど太陽を裸眼で見てはいけないと注意していたのに、次の日のニュースや新聞には、昨日の皆既日食を見て目の調子が悪くなった人が、何人もいるとの報道がありました。また、テレビを見ていると、浜辺で収録したカラオケのど自慢のような番組がありました。その中で「私なんて、エクリプスで真っ暗になったときに、ディスコみたいに踊っちゃった。」「ぼくなんか、ずうっとエクリプス見てたもんだから、こんな風になっちゃった。ほら。」とサングラスをはずすと、眼鏡の跡を白く残して日焼けしていたという、笑い話に思わず吹き出してしまいました。

8月12日付のベルギーの新聞「ル・ソワール/Le Soir」の第一面には、実にほのぼのとした写真が掲載されていました。目を保護する眼鏡をかけた女の子二人と、お父さんと、お母さんが、空を見上げているのですが、お母さんが抱いた赤ちゃんもしっかりと眼鏡をかけて、おっぱいを飲んでいるのです。なんとも微笑ましい光景です。

8月12日付の英国の新聞「ザ・ミラー/The Mirror」には、各国で日食を見ている人たちの写真が数多くありました。ロンドンには「日食通り/ECLIPSE RD E:13」という名前の道があるのですね。そこからは、日食がよく見えたのでしょうか。 コソボに赴任しているフランス兵士が、軍服とヘルメットを着用のまま、日食用の眼鏡をかけて、空を見上げている写真も目を引きました。中には思わず笑ってしまう写真もありました。洋式トイレのO字型便座に、目を保護するシートを張り付け、それを頭と肩にベルトで固定して、空を見上げているベルギーの人です。イタリアのローマでは、コロッセオの前でローマ兵士に仮装した人たちが、時代絵巻さながらに太陽を見ていたり、ギリシャのアテネでは、アクロポリスのパルテノン神殿が陽炎にゆらぐ中、空を見上げる旅行者が印象的でした。そのほかの新聞にも、エジプトのスフィンクスの前で日食を見る旅行者、ひとつの眼鏡を二人でかけて仲良く片目ずつ空を見上げている若いカップル、飼い主が、愛犬やチンパンジーにも目を保護する眼鏡をかけて、一緒に太陽を見上げている写真なども、何枚か紹介されていました。

「リュニオン/l'union」は、フランスのシャンパーニュ地方の新聞です。8月12日付の第一面は、ランスのノートル・ダム大聖堂の前に集まって、皆既日食を見る人々の、まるでサッカーの満員の観客席のような写真や、フランスを代表する歌手のひとりであるジェシー・ノーマンの写真が載っています。エペルネーでは、皆既日食になった12時24分に、男の子が生まれたようです。皆既日食ベビーアクセル(Axel)君と、生まれたばかりの我が子を気遣う、母親の写真が紹介されています。身長50センチ、体重3440グラムでこの世に生まれでた男の子の人生が、劇的に始まったのです。ルーマニアには、ドラキュラ伝説がありますが、皆既日食の時間帯に生まれた赤ちゃんは、いなかったのでしょうか。

もちろん日食グッズや、日食にちなんだ気になる物もいくつかありました。フランスの新聞「ル・フィガロ」にスウォッチ(swatch)の「皆既日食記念腕時計」の広告が出ていました。私は、スウォッチコレクターではありませんが、これは是非「今回の皆既日食の記念」としてほしくなりました。欧州に滞在中、時計屋を見つけるたびに「皆既日食の記念腕時計は、ありますか」と聞いたのですが、なかなか見つかりません。レマン湖のほとりの町エヴィアンでは、時計店のマダムが「ジュネーブに行けば、きっとあるから」と教えてくれたので、この時計を買うために、またジュネーブに戻りました。さすがはスイスの首都で大都市です。今回の移動中は、ほとんど日本人には会わなかったのですが、あちらこちらで日本人を見かけます。時計店を1軒、2軒と訪ねますが、皆既日食記念腕時計はありません。ほうぼうを探し回って、やっとウインドーに飾ってあった、最後のひとつを手にいれました。

また、フランスのいたるところで見かけた、日食の新聞「ル・ジュルナル・ドゥ・レクリプス/Le journal de l'eclipse」(本当は、10フランで売っていたらしい)には、さまざまな視点から日食を見た、特集記事が数多く掲載されています。たとえば、フランスの車メーカーのプジョー(Peugeot)には、402というモデルに「日食/eclipse」という名前をつけた、クーペがあるのです。これは、1935年から1939年にかけて、481台しか生産されなかったそうで、ルーフをトランクにすっぽりと格納することが出来るそうです。その様子は、あたかも太陽が欠けていくかの如く、魔法にかかったかのように、徐々にオープンカーに変身するのです。なんて前衛的な発想なのでしょう。現在では、コレクターの間で、200,000FRF(約400万円)あたりで取り引きされているそうです。

日本にも「エクリプス/ECLIPSE」という車が、三菱自動車から出ています。こちらもクーペです。畑の真ん中で私が皆既日食を見たときは、カップルが多かったけれど、シュールなスタイリングを追求すると、やはりクーペになるのでしょうか。今回の皆既日食フィーバーの際に、世界中で一番すてきなダイヤモンドリングを、フィアンセから贈られた幸せな女性は、いったい何人いることでしょう。

フランスの町の本屋で「太陽と食/Le Soleil et ses eclipses」というタイトルの、子供向けの絵本を買いました。少し小さめの日食用の眼鏡が、付録についています。皆既日食や金環食について、小さなボール(月)、大きなボール(地球)、糸、テープ、ライト、を使って、解説しています。糸でたらした小さなボールを、上下左右に動かして、自分でいろんな「食の状態」を作ることにより、さらに理解度を深めているのです。どこで日食が起こるかについても、大きな厚い本でライトを斜めに固定し、大きなボールを串にさして、粘土の土台に斜めに固定して、糸でたらした小さなボールを移動させると影が出来ますよね。この影が、皆既日蝕になる部分を示しているのです。身近にある簡単な道具を使ったとてもわかりやすい解説には、感心してしまいました。他にも、月と太陽がキスしているのは部分日食で、抱き合っているのは皆既日食というイラストなどがありました。

この皆既日食のお祭り騒ぎに目をつけた、便乗広告もいくつかありました。 わかりやすいのは、フランスのラジオ局「ヨーロップ・アン/Europe1」の新聞公告で、マイクの柄にヨーロップ・アンのロゴが入っています。そして、頭の丸い部分を月に見立てて、コロナが放射状に光り輝いているというものです。また、パソコンに向かう男性の頭から、コロナが光り輝いている広告や、BRILLANT ECLIPSE(ブリヨン・エクリプス)という商品名の、金属を磨く洗剤のポスターなどもありました。よく輝きそうです。

8月11日付けのオージュルドュイ(Aujourd'hui)には、今までに23回も黒い太陽を見た、男性の記事がありました。ベルナールさんが、1973年6月30日に初めて見た黒い太陽は、何と6分6秒もの間も現われていたのだそうです。その後26年間、15か国を訪れた中で印象に残る、ニューカレドニアやベネズエラでの様子も書かれていて、みんな鳥肌を立てて、目に涙を浮かべて太陽を見ていたのだそうです。今後はすでに、4つの日食観測計画があり、彼が持つ世界記録は、まだまだ更新されそうです。出掛けた先々で、黒い太陽を必ず見ることが出来たベルナールさんは、なんて幸運なのでしょう。奥さんはいつも同行したわけではないようですが、お二人はご結婚50周年を向かえられたそうです。これから25年後のダイヤモンド婚式は、黒い太陽の下でお祝いしてほしいですね。

このように、一度皆既日食の美しさにとりつかれた者は、その次も。またその次も、皆既日食を求めて地球上を移動するという話があります。その気持ちは、今の私にはとてもよくわかります。さて、次に観測しやすい場所で皆既日食が起こるのは、2001年6月21日の南アフリカなのだそうです。観測のベストポイントは、もしかしたら船上なのかもしれませんね。ではみなさん、次回はアフリカで黒い太陽と共にお会いしましょう。


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First Upload: 23 September 1999
Last Updated: 27 September 1999

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